『わたつみ』にはまず『松浦某(まつらのなにがし)』という男が登場します。彼は夢の中に『志賀大明神』が現れたことから、思い立って志賀島を目指してやって来ます。
ここに出てくる『松浦某』は『籠太鼓(ろうだいこ)』という現行曲にも同名のキャラクターが登場しますが、まったくの別人です。では何故作者はワキを『松浦某』と定めたのでしょうか?
松浦とは旧肥前国に所属した郡で、今でいうところの長崎県、佐賀県の北部地域を指します。松浦某はこの松浦潟から船に乗って志賀島へ上陸するのです。
考えられることは二つ。一つは旅と定めるには程良い距離感であること。あまり近すぎては話になりません。能には『道行』という、自分がこうしてここを通ってここまでやって来たと説明する件があります。それを表すには、松浦潟から玄界灘を通ってくる美しい景色が不可欠要素であったのでしょう。
「蒼海の 神の恵みを松浦潟 漕ぎ行く船も一葉の 波戸御崎を打ち過ぎて 磯に千鳥の友呼ぶこ 夕日かげろふ姫島や 女心の鬼のすむ
玄界島を漕ぎわたり 八つの耳聞く志賀の浦 磯良が崎に着きにけり」
波戸、呼子、姫島、玄界島と、現在の地図と照らし合わせてもその経路がはっきりと分かります。志賀島にとっても玄界灘は大事な海。この景色を表したかったというのが最も考えられるところです。
もう一つはあくまでもわたしの推察。阿曇磯良が神功皇后の朝鮮出兵の庇護役を務めたことは有名ですが、松浦のとある山に、神功皇后は朝鮮出兵の戦勝を祈念して鏡を山頂に埋めたと伝えられています(故に鏡山という)。そんなこともあって、磯良と神功皇后との深い関係から縁の土地を選んだということもあり得るのではないでしょうか?また松浦国(古くはまつら、末羅)は魏の使者が対馬、壱岐を経由して、本土に最初に上陸する倭の地でもあります。松浦は色々な意味で要所であったことは間違いありません。
この時代、九州においては物も人も西からやって来るという思想が一般的なイメージだったと思われます。松浦某はどんな思いを抱きながら、玄界灘を渡っていったのでしょうか?この曲はこの松浦某の気持ちになって御覧頂くと、なお一層面白いと思います。
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松原徳文 (火曜日, 25 10月 2022 12:35)
甲子夜話を書いたお殿様(肥前国平戸藩)松浦静山・・・この方、一般にはマツウラ・セイザンと呼ばれていますがマツラ静山。魏志倭人伝に出て来るマツラ国(末盧國(まつろこく/まつらこく))この甲子夜話には良く能楽の事が載ってます。